2025年04月08日
4月7日の記事
2025年4月7日
第566回 普天間基地ゲート前でゴスペルを歌う会
日が次第に長くなり、そろそろライトがいらなくなりそうだが、今年は寒さがまだ残っていて、半そでTシャツのR君もさすがに寒いですよ、と言っていた。 「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国を下さる。」 で今日も始めたが、語ることはたくさんで時間が足りないほどだった。
今日は、宜野湾の病院に置いてあったチラシを読んだ。「平和を求める元軍人の会・琉球・沖縄国際支部(VFP-ROCK)が、辺野古と普天間基地について知っておくべき事を、Q&Aで明快にまとめたものだ。
Q「辺野古の海の地か90メートルまで不安定な地盤があり、砂の杭を埋めて地盤を安定させると防衛省は言っていますがどうやって埋めるの ですか?」 A「防衛省は70メートルのドリルで7万個の砂の杭を造るとしています。
Q「なぜ90メートルのドリルを使わないのですか?」 A そのような長いドリルは世界中、どこにもないからです。
Q「90メートルのドリルで90メートルの穴を掘るなんてできるのですか?」 A できません。」と始まって実に明快である。
そして最後には普天間基地ができた歴史から、土地接収が犯罪であり、今も人々の生活を破壊し、人権を奪い、人としての尊厳を傷つけていると、基地問題の本質に迫る内容である。私たちの群れは小さいが、同じ思いを持っている人たちがたくさんいることがわかり、主の励ましを感じることができた。
また、前日には重慶からの訪問団が、初めて日本を訪れたが、最初の地として沖縄を選んでいた。日中戦争は15年続き、日本は中国を侵略し続けた歴史が明らかになり、侵略の犠牲になった地として沖縄を捉えていたのは、彼らの歴史認識の確かさを示していた。そこに参加されていたTさんやOさんにも感想を述べていただいた。すると、台湾で生まれたUさんがご自身の歴史を語り始め、最後はもう時間です、と打ち切られるほどだった。多くの人が口を開いて思いを語る、その熱さがあふれた日だった。
(T.N)




私の戦争体験
私は宮古島の出身です、1944年母のお腹にいて台湾に家族10人で疎開しました。疎開船は台湾のキールン港に着いたときに米軍グラマン機の空爆を受け、また、街に入っても爆撃は続き母の話では爆撃直後には街路樹に首、腕。足がぶら下がっており、また、妊婦のお腹に弾が当たつたなどがあったと話していました。疎開は縁故疎開であったので家はなく見つかったのはマラリヤが発生する川の近くで幽霊屋敷であった。そこで私は9月19日生まれました。父は軍隊に2等兵として採用され、食べ物はなく母は栄養不良で乳は出なくて、私は軍からミルクの配給があったのだが兄弟がたくさんおり私のミルクは兄弟たちが飲んでしまい。私は米のおもゆをあてがわれおもゆで育ちました。
7.8歳の子供は駅にお餅など売りに行ってお金を稼いでいたそうです。また、私のすぐの上の兄さん姉さんは食事が足りなくて毎日醬油を飲んで空腹を満たして栄養不良で二人とも死んでしまいました。また、家族は私と父の二人以外マラリヤにかかり寝込んでいました。
母の話 後日談泣きながら家族の為、二人は死んだのかな? 母は92歳で亡くなったがなくなる前あなたを生んで良かったと言いました。
浦崎
第566回 普天間基地ゲート前でゴスペルを歌う会
日が次第に長くなり、そろそろライトがいらなくなりそうだが、今年は寒さがまだ残っていて、半そでTシャツのR君もさすがに寒いですよ、と言っていた。 「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国を下さる。」 で今日も始めたが、語ることはたくさんで時間が足りないほどだった。
今日は、宜野湾の病院に置いてあったチラシを読んだ。「平和を求める元軍人の会・琉球・沖縄国際支部(VFP-ROCK)が、辺野古と普天間基地について知っておくべき事を、Q&Aで明快にまとめたものだ。
Q「辺野古の海の地か90メートルまで不安定な地盤があり、砂の杭を埋めて地盤を安定させると防衛省は言っていますがどうやって埋めるの ですか?」 A「防衛省は70メートルのドリルで7万個の砂の杭を造るとしています。
Q「なぜ90メートルのドリルを使わないのですか?」 A そのような長いドリルは世界中、どこにもないからです。
Q「90メートルのドリルで90メートルの穴を掘るなんてできるのですか?」 A できません。」と始まって実に明快である。
そして最後には普天間基地ができた歴史から、土地接収が犯罪であり、今も人々の生活を破壊し、人権を奪い、人としての尊厳を傷つけていると、基地問題の本質に迫る内容である。私たちの群れは小さいが、同じ思いを持っている人たちがたくさんいることがわかり、主の励ましを感じることができた。
また、前日には重慶からの訪問団が、初めて日本を訪れたが、最初の地として沖縄を選んでいた。日中戦争は15年続き、日本は中国を侵略し続けた歴史が明らかになり、侵略の犠牲になった地として沖縄を捉えていたのは、彼らの歴史認識の確かさを示していた。そこに参加されていたTさんやOさんにも感想を述べていただいた。すると、台湾で生まれたUさんがご自身の歴史を語り始め、最後はもう時間です、と打ち切られるほどだった。多くの人が口を開いて思いを語る、その熱さがあふれた日だった。
(T.N)




私の戦争体験
私は宮古島の出身です、1944年母のお腹にいて台湾に家族10人で疎開しました。疎開船は台湾のキールン港に着いたときに米軍グラマン機の空爆を受け、また、街に入っても爆撃は続き母の話では爆撃直後には街路樹に首、腕。足がぶら下がっており、また、妊婦のお腹に弾が当たつたなどがあったと話していました。疎開は縁故疎開であったので家はなく見つかったのはマラリヤが発生する川の近くで幽霊屋敷であった。そこで私は9月19日生まれました。父は軍隊に2等兵として採用され、食べ物はなく母は栄養不良で乳は出なくて、私は軍からミルクの配給があったのだが兄弟がたくさんおり私のミルクは兄弟たちが飲んでしまい。私は米のおもゆをあてがわれおもゆで育ちました。
7.8歳の子供は駅にお餅など売りに行ってお金を稼いでいたそうです。また、私のすぐの上の兄さん姉さんは食事が足りなくて毎日醬油を飲んで空腹を満たして栄養不良で二人とも死んでしまいました。また、家族は私と父の二人以外マラリヤにかかり寝込んでいました。
母の話 後日談泣きながら家族の為、二人は死んだのかな? 母は92歳で亡くなったがなくなる前あなたを生んで良かったと言いました。
浦崎
Posted by サマリア at 22:00│Comments(0)
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